フィリピン・ミンダナオ島・マラウィ内戦
被災者・避難民
難民キャンプ救済活動
YUMEKAKE PROJECT by NGO HOPE halohalooasis
The saving activity for refugees from the civil war in Marawi, Mindanao
フィリピン・ミンダナオ島・マラウィにおける、内戦による避難民への救援活動についての、ご協力のお願い
NGOでは、未だ内戦状態が続き、戒厳令下のフィリピン・ミンダナオ島のマラウィ市付近の難民キャンプにて、内戦による避難民への救援活動を行っています。
主な活動は、避難所における、食料や生活支援等の物資の配給、炊き出し、医療支援プロジェクト等です。
ただ、こちらの活動におきましては、現在、NGOとしての予算が用意できなく、まったくの私費の持ち出しとなっている状態です。
ふだんの支援地域であるフィリピン・セブ島のスラムの活動においてさえ、資金が足りない状態ですので、それは初めからわかっていたことですし、仕方ないのですが、
もしお願いできるのでしたら、皆様に支援金のご援助を頂きたいと思い、ご協力をお願いさせて頂きたいと思います。
スタッフやアシスタントの活動についてはすべてボランティアですので、人件費は発生致しません。(もし被災地・現地の方に案内や手伝いをして頂いた場合の謝礼は、お渡しする場合もあります。)
もしかしたら、ただの遠い海の向こうの出来事なのかもしれません。
それでも、もしもこの活動にご理解頂けましたら、義援金のご援助をお願い致します。
内戦の被害により、難民キャンプにおいて、困難な生活を強いられている避難民への、継続的な支援のために、
もしご協力頂ける場合は、以下のNGOの口座までお振込み、もしくはクレジットカードにて、お願い致します。
皆様のあたたかいお気持ちと、ご支援・ご協力お待ちしています。
【 支援金のお振込口座 】
☆ゆうちょ銀行(郵便局)☆
{名義 : HOPEハロハロオアシス }
(1)郵便局以外の金融機関(ゆうちょ銀行以外の銀行など)よりのお振り込みの場合
支店名
〇三八(ゼロサンハチ)
店番
038
(もし支店名がカナのみ選択肢の場合は、「セ」を選択・入力して頂ければ、番号の選択肢がでます。)
普通預金口座番号
6081854
(2)郵便局(ゆうちょ銀行)よりのお振り込みの場合
記号
10380
普通預金口座番号
60818541
※(1)(2)の、郵便局(ゆうちょ銀行)以外の金融機関からのお振り込みか、もしくはそ郵便局からのお振り込みか、で振込方法が異なりますので、ご注意下さい。
Report for First Mission at Iligan
2018 Dec.
2018年12月の現地における第一回の活動時のレポートです。
その後、継続して、食糧・生活支援、医療支援プロジェクト等、支援活動を続けています
2018年末、NGOでは、ミンダナオ島・イリガンにおいて、同島マラウィでの内戦による避難民による難民キャンプの救済・支援活動を行いました。
(以下、難民キャンプにおける「医療支援プロジェクト」レポートより抜粋)
日本、いや世界の一般では、フィリピンは、美しい海を満喫できるリゾート地です。セブ島、ボラカイ島、パラワン島など、有名なビーチがあり、都市部には昼夜楽しめる歓楽街や大きなショッピングモールもあります。
しかし、その半面、貧富の差は激しく、都市部に隣接する地域にもスラムは広がり、困難な生活を強いられている人々がたくさんいます。
そこには、環境、教育、医療、薬物、犯罪、児童労働・売春、ストリートチルドレン、人身売買、宗教、、、様々な問題が渦巻いています。
そして、そんなフィリピンの南部に位置するミンダナオ島マラウィ市で、2017年5月にイスラム過激派組織と政府軍の間で大規模な戦闘が発生し、現在もまだ戒厳令が発せられています。その内戦により、死者は1200人以上、そして、40万人以上が避難生活を余儀なくされたことは、日本ではほとんど知られていません。
ここマラウィでは、もう数十年に渡り、内戦が続いています。圧倒的なキリスト教国であるフィリピンにおいて、少数派のイスラム教徒が暮らすこの地域では、やはり様々な問題が生じました。ムスリムに対する差別や偏見(日本人の感覚ではむしろピンとくるのではないでしょうか)もありました。ただ、それでもそれぞれの慣習を守りつつ、不満もいろいろくすぶりながらも、それぞれが生活の中で融合し、多くの民衆は平穏に暮らしていました。しかし、一部の過激な不満分子が、反乱・戦闘行為や誘拐等を行い、世界的にはまったくといっていいほど話題にならないくらいではありますが、小規模な混乱は続いていました。
その流れが劇的に変化したのは、近年のIS(イスラム国)を初めとする、中東におけるイスラム過激派の台頭です。I S、マウテグループやアブサヤフといった過激派組織に忠誠を誓う組織がマラウィ市を占拠し、政府軍との大規模な戦闘へと突入したのは2017年5月23日のことです。ドゥテルテ大統領はすぐさま戒厳令を敷き、現在へと続いています。
NGOではこの内戦の勃発から準備を重ね、昨年2018年末、現地へ赴き、多くの避難民が生活している戦闘地帯近隣のイリガン市の避難所・難民キャンプにて、食料配給等の、支援活動を行いました。
通りでは当たり前のようにヒジャブの被ったムスリムの女性たちをたくさん見かけます。レストランでも「豚肉無しメニュー」や、食材やお菓子にも「ムスリムOK」みたいな表示がしてあったりして、すっかりその生活に溶け込んでいるようにみえます。市街地は活気があり、一見平穏に思われます。しかし、幹線道路には軍の検問があり、街には外国人の姿をまったくといっていいほど見かけません。そう、ここはもう外務省指定、危険度3・渡航中止勧告地域です。
(第一回・難民キャンプ救済、支援・活動報告レポートより)
ISを始めとする中東でのイスラム過激派が勢力を強めるに従って、この小さなイスラム過激派が、それらの組織を同盟を組んだりして、その状況が変わっていきました。
そして、中東において討伐された残党や武器がアジア、ここに流れ込み、逆に、この島のイスラム過激派の勢力が増したのです。
それは大規模な戦闘に広がり、多くの住民が被害を受けました。
内戦により家を壊された人々は、周辺の地域、多くはマラウィのすぐ隣のイリガンに避難し、政府やNGOの支援もあり、多くの避難所が設置され、そこでの生活を余儀なくされました。
また、それが本当に深刻な問題を背負い、複雑な思いにさせられるのは、
その背景が何であれ、こうして多くの避難民を生む直接の原因は、イスラム過激派が起こした戦争で、しかしそれはイスラム教徒の居住区で行われ、被害を受け、家を破壊され、多くの死傷者がでて、避難所生活に苦しんでいるのも、また同じイスラム教徒だということ。
戦闘の激化により戒厳令が発せられ、故郷を追われて、被災者たちの、各地の避難所での生活は、もう2年(*)になろうとしています。
(*2018年末現在)
今回、NGOでは、そのようなイリガンの避難所において食料配給等の支援活動を行いました。
しかし、ここは、先ほど触れたような、政府が設置した避難所ではなく、避難民による自主的な避難所であり、よってほとんど支援が受けられていません。
住民によると、内戦から避難してきた当初は、現地のNGOによる支援が少しあったようですが、それもすぐに止まってしまい、もうずっと長い間、何の援助もない、ということです。
もともと差別的扱いを受けていたイスラム教徒が、家も仕事も失い、他の場所に避難し、支援も受けてもいない、、、
それが今回、NGOが救済活動をした人々でした。
ここは、そんな「忘れられた難民キャンプ」でした。
実はここに至るまではとても大変でした。
自分たちのNGOは、ふだんセブ島で活動しています。
しかし、この支援の話を、いつも一緒に活動しているスタッフや、提携団体のリーダーとかにしたら、みんな、「バカげてる」「死にたいの?」「誘拐されるよ」という反応で、協力どころの話じゃありませんでした。
でも、思いました。
よく言う「今、できることを精一杯」、、、
本当に困っている人たちのために、自分が今、できること、、、
それがもし現在のシリアとかだったら、結局ただの一般人の自分には何も手を出せません。本当に死ににいくようなものです。
しかし、同じ内戦でも、ここはフィリピンです。
長年、関わってきて、ある程度勝手もわかってるし、知り合いもたくさんいます。
だから、
自分にも何かができる。
何か、「今できる精一杯」をしなければならない、、、
そして、動き出しました。
たくさんの知り合いに声をかけ、つながり、興味を持ってくれた人と話し合い、やっと2人の協力者が生まれました。
ひとりは、もともとの知り合い、
そしてもうひとりは、数年前、NGOのスラムの施設での活動の中でよく世話をした子、のお姉さん、です。
初めて会うことになるのですが、なんといっても真剣な意味で、危険地域においてその人の命を守る責任があります。
だから、毎日といっていいくらい、いろんなことをチャットで語り合いました。そしてわかり合い、信頼関係を築きました。
(とはいえ、向こうはもともと自分のことを知っていたのですが)
彼女が自分に投げかけてくれた言葉、、、
you're an angel sent from above...
ただ、彼女もいろいろ心配だったのだろう、ふと、こんなことをつぶやきました、、、
Take care of me in Marawi, ok ?
こう答えました。
Yes, of course.
I will protect you from everything..
もうひとり、、
彼女はもともと地元で小さな支援活動をしている学生で、それもあって声をかけたのですが、
彼女はこう言ってくれました、、、
Thanks to you... It's going to be a dream come true for me...
困難な状況にある人々の救いの声に応えるために、
そして、ふたりへの責任と夢をも背負って、
少しずつ、手探りで、それでもなんとか前へ進んでいきました。
何かが起きることも覚悟はしてました。不安もたくさんありました。
でも、なんとかなるんじゃないか、と、自分の覚悟と使命を信じて、勇気を奮い立たせながら、
一歩一歩、きっと明日への希望へと繋がる、今は何も見えてこないけど、でも、そんな未来への道を作っていきました、、、
こうして、徐々にNGOでは、ミンダナオ島での、イスラム過激派と政府軍の内戦による避難民の支援活動の、計画をし始めました。
例えば中東では、邦人が誘拐され、何度か報道されています。
ここミンダナオでも、日本人の被害がないから日本では報道されませんが、たまに爆破テロや誘拐事件が起きています。
そして内戦が激化し、戒厳令が出ている、その地へ向かおうとしています。
かといって、べつに死ににいくわけでも拉致されにいくわけでもないし、そうなりたくもないので、できる限りの準備をしていこうと思いました。
しかし、、、
現地で活動するNGOに連絡をとったのですが、結局最後までうまく連絡がつかず、
そんなこんなしているうちに出発の日が来てしまいました。
大きな不安を抱えながらも、まあなんとかなるだろう、、、と、いつものやつで(気楽に、という意味ではないです)、現地入りしました。
内戦の地であるマラウィの隣のイリガンという町に宿をとりました。
一見、平穏なこの町なのですが、外国人の姿はまったく見かけません。
そして、郊外には軍の検問所があり、町中にもふつうに軍の車が停まっています。
イスラム過激派の一員がこの町のどこに潜んでいるかもわからない。
ここはもうまぎれもなく戦場への足をふみいれた、外務省発出の危険度レベル3の地域です、、、
ところで、
とりあえずこの時点で、現地との連絡は途絶えており、仕方ないので、とりあえず直接、そのNGOの事務所に行ってみました。
だが、誰もいない、、、
というか、しばらく人がいた形跡がない、、、
うーん、どうしよう、、、と、とにかく、連絡がとれたら、と、ドアに連絡先のメモを挟んできました、、、
宿に帰って、とりあえずお昼を食べて、で、なぜかすっかりやりきった感で、昼寝に入ったフィリピン人アシスタントのふたり、、、
えっと、、、
自分的には、たぶん、しばらくあの事務所には誰も来なくて、うちらに連絡が来るとは思えないんだけど、、、
と、
「あのさあ、、、」
と、むりやり、ふたりを起こし、次のアクションに入りました。
実は、日本でコンタクトがとれた人の中に、マラウィ入りしたレポートを報道しているフォトジャーナリストの方がいました。
こんなこともあろうかと思い、あらかじめその方に、ある避難所のおおよその地区を聞いていました。
それが、今回訪れた、政府の支援の手が届いていない避難所です。
それは、本当に、忘れられたように、町外れの山の中にありました、、、
おおよその住所のメモを頼りに、町のいろんな人に聞きながら、ジプニー(軽トラの荷台を改造したフィリピンローカルな乗合バス)を乗り継ぎ、たぶん近くまできて降りて、また付近の人に尋ね、そしてなんとかたどり着きました。
そこには、廃校と朽ちかけたバスケットコートと、そしてテントが並んでいました。
遊んでいる子どもたちが、おそらく珍しいのだろう、恥ずかしがりながらもこっちをすごく見て、気にしてます。
手をふると笑顔でふりかえしてくれるヒジャブの少女たち。
でも、近付こうとすると恥ずかしがって逃げてしまう。
でも、ずっと付いてくる。
振り向くとまた逃げてしまう、、、
そして、テントに行ってみました。
そこにはひとりのおばあちゃんがいました。
たくさんの話をしてくれてました。
今までのこと、現状、不満、不安、そしてあの日のこと、、、たくさんのことを、、、
「もう、8ヶ月も何も支援をされていないわ」
おばあちゃんが訴えます。
戦争で家も仕事も何もかも奪われ、仮設テントでの生活。
支援がないと生きていけない。
でもなんとかみんなで協力してがんばってる。
これからのことを考えると不安で仕方ない。
でも故郷へは帰れない。
帰っても、そこにあるのは破壊された瓦礫の山だけだ、、、
いろんな話をしました。
そして、ここでの支援活動のことを相談しました。
今、何が必要ですか?
仮設住宅が立ち並ぶ村を訪れ、集まってくれた人たちと話し合いました。
食料と、あと、石鹸とかの生活用品、、、やはり今足りないのは、生きていく術の基本的なものです。
翌日からの支援活動の段取りを決めて、村のリーダーにも話を通してもらって、遠巻きにずっとこっちを気にしてる子どもたちに愛想を振りまいて、
避難所を後にしました。
そして、翌朝、
地元の市場で支援物資のお米や缶詰、子どもたちへのプレゼントのお菓子をたくさん仕入れました。
よく見ると、原材料の関係なのでしょうか、お菓子にも、「ムスリムOK」のハラールマークとかがあります。
手配したジプニーに荷物を積んで、村に行き、そして、避難所の人たちと一緒に、物資のパッキングをしました。
いつのまにかたくさん集まった避難民の方たちを、なんとか整理して、支援物資を配りました。
みんなとても嬉しそうでした。
配給に一段落がついたあと、集まってる子どもたちとゲーム大会をしました。
そういえば、何気に「みんなでおっきな輪を作ってー」って言ったら、見事に男女別のふたつの輪ができました。
ムスリムはやはり男女間の接触に厳しいということなのでしょう。
クリスマスソングでも歌う?と言ったら、キョトンとされました。
文化の違い、宗教の違い、それはもうどうしようもなく根付いています。
でも、そんなの、こうやって人と人とがあたたかくふれあっている中では、本当はべつにたいしたことじゃない。「あ。そっか。そうだよね。気づかなくてごめん。」で済むようなことなのです。
なのにそれが、差別や誤解を生み、憎しみの連鎖となり、戦争へと繋がり、こうしてたくさんの被災者が生まれてしまう、、、
でも、今はいい。忘れよう。
この楽しい時を、もう少しだけ、みんなで分かち合おう、、、
ゲームの賞品は抱えきれないほどのお菓子がいっぱい。
気がついてみると大人も一緒に混ざってた。勝手に体が動いてた。
みんなとても楽しそうだった。
きらきらした笑顔がたくさんあった、、、
そして、
いつのまにか一日が終わり、自分らも帰る時間になりました。
最後にみんなで歌を歌いました。
持っていったギターを弾いて、輪になって歌いました。
みんなが知ってる歌を、、と思って、ある少女に聞きました。
「知ってる?」
「うん」
one call away
この歌の歌詞みたいに、
電話一本でかけつけるのは無理だけど、
スーパーマンにはかなわないけど、
でも、
キミはひとりじゃない。
こうして一緒に笑顔を分かち合える、、、
今回の支援活動の終了後、日にち的にはもうクリスマスは過ぎていたのですが、
アシスタントのフィリピン人曰く、「年内はクリスマス」、らしい。
町もぜんぜんまだクリスマスモードです。
余った支援物資の袋をいくつか持ち歩き、宿への帰り道、ちょっと気がついた人に配りました。
杖をついてるおじいさん、
階段で疲れて座り込むおばあさん、
ずっと立ってる警備員、
半裸で汗だくになってトライシカット(自転車タクシー)を漕ぐおいちゃん、
ストリートで暮らしてる、おっきな荷物を引きずりながら歩く人、
道端で寝ている汚れきったひげだらけの人、
etc...
道行く人に、メリークリスマス!といきなりプレゼントしました。
おたがい、なんだかハッピーでした。
うん。なんか、素敵なかんじでした、、、
できれば戦場に赴き、内戦の戦闘地域に取材に行こうと思っていました。
でも、町の人や避難所の人、誰に聞いても無理だと言われました。
戦場になったマラウィは、戦闘地帯以外の市街地はもうそれなりに機能しているらしく、もともとの住民やビジネスで行く人とかは、許可がおりることもあるらしいです。
ただ、避難所にいる人たちは、ようするにその戦争が激しい場所から逃げてきているわけで、未だに戒厳令が続くなか、それはやはり行くのは無理だろう、と。
そして、何よりも、いちばんの問題は自分が外国人だということ。
アシスタントの彼女にも言われました。
「やっぱり今回は無理だと思うよ。私たちはまだしも、あなたは無理。だからあきらめて、、」
と。
軍や政府関係の組織や、ちゃんとした護衛とかがないと、例えばマラウィに入る道中の山の中で襲われて拉致される、みたいなことも充分有り得ます。
今から日本人が行くぜ、みたいな情報が、何かしらのネットワークで伝わって誘拐されるかもしれません。
今、無理する必要はない。
そう、本来、やるべきことはやった。
今回の活動に際し、たくさんの方に支援・協力して頂きました。
「自分は行けないから」と、義援金を寄付してくれた人、
アドバイスや情報をくれたジャーナリストの森裕一氏、
周りがみんな反対ばかりなのに、どんな危険がまってるかわからない戦地へついてきてくれたアシスタントのふたり、
やばいくらい無愛想だけど、なんだかんだと協力してくれたゲストハウスのおばちゃん、
いろいろ教えてくれたり案内してくれた町の人たち、
避難所で生活する、困難な境遇の中でも、なんとか強く行きていこうとしている人たち、
そして、、、
ここにもある、たくさんの笑顔、、純粋な瞳の子どもたち、、、
みんなほんとにありがとう。
帰り際に、仮設テントで暮らす少女が、
「もう帰っちゃうの?」
「きっとまた来てね」
と、抱きついて離れなかった。
この子の弟は、まだ赤ちゃんで、このテントで産まれたのです。
初めはあんなに恥ずかしがってた子どもたちも、
いつのまにか写真を撮る時に、ヒジャブで隠してた顔を見せてくれました。
うん、、
また来よう。
いや、来なきゃいけない。
誰に理解されなくてもかまわない。
もしかしたら危険が待ってることもわかってます。
まじめな話、資金もありません。
でも、ここに、救いを求めてる人たちがいる。
待っててくれる人たちがいる。
だから、
きっと、また来るよ、、、
きっと、、、
2018年末、NGO「HOPE~ハロハロオアシス」では、そのYUMEKAKE PROJECTの活動として、内戦による戒厳令下の、フィリピン・ミンダナオ島のマラウィにおける戦禍の避難民の支援活動を行いました。
マラウィから避難してきた人たちの避難所がたくさんある、隣のイリガンに拠点を置き、活動しました。
町は一見、平穏で安全そうに見えますが、ここでさえすでに、外務省指定による危険度3・渡航中止勧告地域です。
なかなか現地組織との連絡がうまく行かず、結局、現地入りしてからの手探りの活動になってしまいましたが、なんとか目的を果たせました。
イスラム過激派と政府軍の内戦の激化により、故郷に帰れないたくさんの人たちが、廃校のバスケットコートや付近の村に暮らしていました。
政府の公設の避難所でないため、もう8ヶ月くらい何の支援も受けていない、と言う人々。
しかし、故郷は戦争で壊滅状態で、家も仕事もない。
そんな忘れられた避難所において、
食料等の支援物資の配給や、子どもたちと一緒にゲーム等をして一日過ごしました。
これからも続く、先の見えない厳しい生活のなか、少しでも、夢と笑顔を届けれたら、と思い、
自分も、複雑な感情を抱きながらも、
せいいっぱいの笑顔で、皆と共に、たくさんの思いとかけがえのない時たちをわかちあいました。
最後にもう一度、、、
みんな、本当に、どうもありがとう。
不安、不満、焦躁、希望、喜び、夢、笑顔、現在、過去、そして明日、
様々な思いをわあちあった、今日という日を、自分はいつまでもきっと忘れません。
みんなも、これからもやっぱりまだ、辛い日が続くかもしれないけど、
ふとした時に、この楽しかったひとときを思い出して、
また明日を生きていく勇気と力にしてほしい。
あまりに遠い海の向こうから、
ほんとに、ほんとに、ほんのちっぽけな力でしかないけど、
でも、ありったけの思いを送ります。
今はまだ、しょうじきまったく先は見えません。
それでも、
負けたくない。
現実は受け入れる。目はそらさない。
でも、あきらめたくない。
これからも、一緒に、手を繋いで、強く生きていこう。
いつかまたきっと、もとの平和な生活に戻れるまで、
一緒に、がんばろう、、、